2012-09-11

- 震災から1年半 -

震災から1年半が過ぎました.生活,物の考え方,科学や技術に対する意識がずいぶん変わったように思います.思うようにいかないことも,思うようにならないことも,思うようにできないことも,また思いも至らなかったことも多々ありましたが,まだ事態は収束しておらず,自分の出来ることを粛々とやっていくより他にないと思っています.

 自分自身はもともと原発や放射線の専門ではなく,このような事態になるとは思っていませんでした.なんとなく,安全神話というか,なんとかなる,してくれるもの,という意識がありました --- 3.14の3号機水素爆発の頃までは....(2度目が防げなかったことにショックというか,呆然というか....)

 専攻では,震災数日後に対策・検討会がつくられ,ほぼ連日会議がありました.東大原子力も東海村の施設が被災して,大変な様子でした(そちらの方々は家族を犠牲にして施設に泊まり込み,法令に従って放射線モニタリングを続け....).原発についてはこちらでも対策案なども検討しましたが,現実は,東電や保安院等の現場ですでに,ありとあらゆる対策案が検討されており,外野からの擾乱はかえって迷惑になっているのでは,との印象となり,むしろ長期的な工学教育などを重要視すべきでは,との方向にシフトしていきました.わかっている範囲だけでも積極的に情報発信すべき,という意見もありましたが,それも叶わず,各教授個人は政府の委員会など,奔走しておられたのですが,(はっきりいうと)組織として民衆側に 立つ(安全側でも危険側でもなく,今わかっている科学的見地から,人々の不安を和らげ,判断の一つの根拠を与える役割を果たす,という意味です)ことができませんでした.いまでも悔しく思っています.

距離は概算,Kita Ibarakiが正しいつづり
(当時のまま 2011.3.15 23:00頃作成)
3.15の早朝,東海村の施設で放射線量が上がり,法令に従い東大から文科省へ通報しました[原子力災害特別措置法に基づく10条通報].私は茨城県の公開データをみて,15日の(多分)夜までには,風向き,速度から,早朝の上昇は福島での前日夜の事象由来,3回"なにか"がおきた,と判断しました(専攻内にはメールで伝えていました).(後に2011年5月に東京電力がプラントの詳細データを公表し,その「何か」が,原子炉の減圧操作と関係しているのでは?と推察しましたが,確信はもう少し後)でした.はっきりしていることは,この事象は15日早朝の2号機破裂音(報道)の前(18~21時頃)のはずだということです.以降,各地の空間線量率と公開された原子炉圧力などのパラメータの記録,分析を始めました.

  (恥ずかしながら)SPEEDIの存在は確か3月20日頃知ったように思うのですが,そのような大型計算機による情報がなくても,公開情報だけでどこまで予測ができるのか,そのようなことも念頭にありました.SPEEDIの情報をもとに逃げる方向を変えるのは現実的ではないでしょうが,少なくとも,プリューム通過中なら屋内退避,雨の予報がでていれば保育園などの小規模な園庭や植え込みのビニールシートカバーぐらいはできたのでは,と思いました(耕地や山林は難しかったと思います).----- 実際は事が起きないと何とも言えない部分があるもの事実です.

 そういう経緯で原子炉,放射線,放射線防護(ICRPも)等をはじめて本気で勉強することになりましたが,半面,自分の研究(プラズマ・核融合)は半年以上完全にストップしてしまい,十分な学生指導もできぬ状態で,時間が過ぎていくことになりました.
 ただ,原子力に近い分野の科学者であり人事では済ませられない,医療従事者の夫であり緊急対応時(余震などで)にはサポートする心構えでいなければいけない(実際はあまり役にはたたず),小さい子供(当時小1)の父親であり,この娘を守ると同時に,物事を正しく伝えなければならない責任(のようなもの)を感じたことも荷担したと(今になって振り返れば)思います.

 震災後しばらくたって,自分が行ったデータ分析をいくつか個人のtwitterやtwitpicsに投稿してみました.googledocsに少し詳しい説明も書いたりもしたのですが,(私が不慣れなせいもありますが)リンクがちょっとおかしくなっているものもありましたので,今後時間をみつけてすこしずつこちらに移行,再掲していこうかと思っています(もう古くなった情報もありますが,記録を兼ねまして).      (2012.09.11 記)